無意識の底から、ふたりが並んで歩いてきた。赤い袈裟をまとった修行僧は、黙って笑っていた。プレイヤーは手に握った何かを楽しげに叩いていた。ふたりはまるで違う姿をしているのに、不思議と似て見えた。
すべてを失ったころ、僕はそのふたつの顔を長いあいだ見つめていた。一日じゅう穏やかに微笑んでいるチベットの修行僧たち。そして人生をゲームのように生きているように見える、何人かの人たち。
修行僧は点を取ろうとしない。だから失うものもない。プレイヤーは点を取るが、それがゲームだと知っている。だから負けても次の一局を始める。どちらも、数字に気分を決めさせない。
僕たちは互いにDNAが99.6%同じだ。8ほとんど同じ形の器だ。自分の遺伝子を選んだ人は誰もいない。なのに、なぜ争うのだろう。誰が僕たちに利己心を植えつけ、互いを敵として見るようにしたのだろう。僕はその答えを長いあいだ探した。そのたびにミーアキャットが訊いた。ほかの説明はない? その99.6%のなかには、Bの夕食の席の男たちもいた。そこで僕は言葉が続かなかった。
そのころ僕が見つけた答えはこうだった。利己心を植えたのはスコアボードだった。数字で報いる盤、恐怖で学習させる盤。その盤の上で、僕たちは互いを競争相手として、脅威として学習した。その盤を作ったのも、その上でボタンを押すのも、結局は僕たちだった。だから争いを終わらせる方法もひとつだ。誰かが先にスコアボードを手放すこと。これは僕の争いについての言葉だ。誰かに座らされた人に、先に手放せという言葉ではない。
賞と罰で学ぶ人工知能、強化学習には、報酬が遅れて来るという問題がある。いま押したボタンの値がずっとあとになって返ってくると、脳は何のせいで賞を受け、何のせいで罰を受けるのかがわからなくなる。9人はその遅れて来る値を、ずっと昔から業と呼んできたのかもしれない。
修行僧がミーアキャットを指さした。観察者の席、宇宙飛行士の目。そこから見ると、一行が浮かんだ。
人生とは、大義のための自由意志は報われ、私心のための自由意志は業になるゲームだ。
そのとき僕は、そのルールをもっと大きなスコアボードのように読んだ。業を、遅れて届く罰として。
そのルールが僕に問いかけていた。彼女を守ろうとする心と、真実を突きとめて勝ちたい心。そのふたつがひとつの体のなかにあった。前のものは大義で、うしろのものは私心だった。そのふたつを分けることが、この盤のボス戦、ゲームの最後に立ちはだかるいちばん強い敵との戦いだった。
僕は勝とうとするボタンから手を離した。少なくとも、そう信じていた。
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